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道ゆき花の歌 壱 ナツク

  • 執筆者の写真: みうらさここ
    みうらさここ
  • 2022年5月1日
  • 読了時間: 9分

更新日:2023年9月11日

じりじりと肌が焼ける。

喉が枯れて声が出ない。

家の外に放り出されてから、一刻は経っていた。

意味がないことを察しながらも、ナツクは力なく戸を叩く。

「お前はなぜ生まれたんだろうな」

父の口癖だった。

そんな時、ナツクは何を言ったらいいか分からなくて、黙って父の目を見つめていた。

「この世には文字ってものがあるんだ。俺も旅の僧侶に教わるまでは知らなかった。

お前の名前はなんて書くか、知ってるか」

弱々しくひっかくようにして、地面にいく筋かの線が残される。

「夏の苦しみ。

夏の苦しみと書いて、ナツクと読むんだ。

お前が生まれた年は特に酷い暑さだった。何日も何日も雨が降らず田畑にヒビが入るほどだ。

あいつはお前を産むどころじゃなかった。なのに無理をしてお前を産んだ。

お前が生まれたからあいつは死んだ。

今もこうして、お前がいるから俺の食いぶちが減る」

なんだか急に、眠ってしまいたくなった。

これはきっと、夢なのだ。

目が覚めたら、笑顔の父がいて。

まだ会ったことはないけれど、きっと優しい母がいて。

田畑が豊かに実って。

ご飯のおかわりができて。

お腹いっぱい食べられて。

そんな現実が。

「もう、いくか」

戸が開いた。

父は力なく微笑んでいた。

「一緒に、いくか」

どこに、とは言わなかった。

ナツクは首を横に振った。

自分が田畑を見なくては、残り少ない作物まで枯れてしまう。

「いかない」

「そうか」

父は寂しそうに笑った。

翌日、家には誰もいなくなった。

がらんとした家の中に一人、大の字になった。

汗をかいた腕を咥えて塩気をねぶる。

その時になって初めて、ナツクはどこかへ行きたくなった。


「はっ」

相手の呼吸の乱れた所を逃さず、面をつけた剣士は一歩踏み込んだ。

下段の構えから、地面を擦るように木刀を振り上げる。

その先にあった相手の木刀は空高く跳ね上がり、弧を描いて遥か後方の木床に横たわった。

少し間をおいて、わっと歓声が上がる。

「参りました。さすが地方とはいえ有数の道場だ。また機会があればぜひ」

挑戦者が顔を上げた瞬間、相手は既にその場にいなかった。

道場を出た門の側、道場主はばしばしと面をつけた剣士の背中を叩いていた。

「さすが。他流派の剣など木っ端微塵ですな」

「やっぱり、いい刀ですねえ」

剣士は木刀を日の光に当てて眺めている。

「こんなものでよければ持っていってくれていいと何度も言っているのに」

「武器を常に持っていると、気が迷った時に容易に人を傷つけると、師匠が言っていました。

私には森の枝で十分です」

「そう言いながら全然離さないじゃないか」

「そりゃあ、木刀の方が扱いやすいに決まっているじゃありませんか」

剣士はため息をつきながら、持ち主の元に戻ったそれにひらひらと手を振った。

「この調子で次も頼むよ。今回も報酬は…本当にこんなものでいいのかい」

剣士は笹の葉に包まれたぼた餅を手に、顔をほころばせた。

「もちろん。奥さんが作るこれ、本当に美味しいんです」

鼻歌を歌いながら去っていく後ろ姿を、道場主は頭をかきながら見送った。

「変わったお人だ」


ぷは、と息を吐きながら蒸れた面をむしり取る。

「いや、楽しかった。面白い太刀筋の人もいたもんだ。

まだまだ世の中は広いなあ」

ナツクの家は、村はずれの小さな小屋だ。

集落のように集まった家々とは少しばかり離れ、森の近くに居を構えている。

長い旅路を終え、ナツクはそそくさと家にあがった。

井戸から汲んだ水を湯呑みに注ぐ。

笹の葉を広げると、中から現れたのは甘い小豆に包まれた餅米の菓子。

「ひとつきぶりの菓子だ!」

ふふふ、と怪しげな笑みを浮かべながらその幸福のかたまりを箸で持ち上げる。

所謂道場破りや他流派の剣士が道場を訪れるのは、頻繁にあることではない。

ナツクは道場の門下生の代わりに面をつけて試合に臨み、こうして甘いものを貰って帰るのだ。

『また甘味か』

師匠の呆れ顔を思い出す。

師には生きる術を色々教わったが、その中でも剣の腕だけは渋々認められた。

『逆にいえばそれくらいしか取り柄がねぇ』

とは他でもない師の言葉である。

なにはともあれ、今はぼた餅だ。

糖の甘みと小豆のほくりとした食感が広がり、もち米のあの独特の弾力が口内を楽しませてくれる。

ナツクはそれらを堪能した後、包んでいた笹の葉を揃えてきちんと手を合わせた。

そして、自分の頬を叩いて立ち上がる。

「さあ、雑草抜きだ」

ナツクは、農民であった。

驚くほど剣の腕が立つ、農民であった。


雑草をあらかた取り終え顔を上げると、隣の水田で村の中でも高齢なお福が手を振っていた。

作業中かいた汗が目に入らないよう頭を覆っていた手ぬぐいをほどく。

ちょうどいい。ひと休憩だ。

水田の方へ向かうと、お福も水と泥を気に介せず、すいすいと歩きながらこちらに近づいてくる。

いつ見ても流石の足捌きである。

「お福婆ちゃん、こんにちは」

「こんにちは。ナツクは今日も元気ねえ」

村でもその人柄の良さで自然と敬われているお福は、いつも穏やかに笑っている。

「お福ばっちゃんには負けるよ。なんでその歳で田んぼや畑の仕事ができるんだ」

お福はふむ、と頷いて自分の歩いてきた水田を見つめた。

「生まれてからずっとこうだからね。命を手放すその時まできっとこうさね。

私達は東桜様のお家に米と野菜を納めて、やっと生活ができるんだからねえ」

その目はいつも通り穏やかだけれど、ナツクには分からない、決して軽くはない何かを背負っているようにも見える。


雷が鳴っていた。

珍しく、村には嵐が来ていた。

家の壁には板を打ち付けて、戸にはつっかえ棒をしっかりとかけた。

あとは叩きつけるような雨音と風の音に心を乱されぬよう、師匠の言葉を思い出す。

『嵐で心が揺れるのは、嵐がお前の心を揺らしているんじゃない。

お前の心が乱れているんだ』

「でも1人はやっぱり、心細いね。師匠」

ナツクは呟きながら、小屋が壊れないことを祈った。

その時、生きるか死ぬかという勢いで戸を叩く音が響き渡った。

「誰かっ。誰かいないか。お願いだ。怪我人がいる。このままだと死んでしまう」

あまりにも必死な声に、ナツクは急いで戸に近づいた。

「開けます」

一言言うと、ナツクはつかえ棒を取り、戸を開けて素早く人影を小屋の中へ掴み入れた。

すぐさま戸を閉め、またつかえ棒を元あった場所に押し込む。

背後を振り返ると、小屋に転がりこんだのは2人だった。

自分とそう変わらない歳の青年と、腕を押さえて身を震わせている老人である。

声を上げていたのは長い前髪が顔にへばりついている青年だろう。

「見せて」

ナツクは老人が抑えていた手をどけると、服を脱がせて傷の様子を見た。

傷は浅いが、襲われて逃げる途中で多く血を流したのだろう。

水に濡れると傷は癒えにくい。この叩きつけるような音を立てて振る雨が災いしている。

「この血止めの応急処置は的確だけど、あのまま外にいたら危なかった。早くそこに横になって」

「助かるかな?」

不安そうな目で青年がこちらを見る。

ナツクはどう言ったものか言葉を探して、やはり心に強く残っている言葉を送ることにした。

「『心が不安に囚われては、どんなに容易い物事でも上手くいかない』。師匠の受け売りだけど、不安に囚われる前にあなたにもできることがあるはずだよ。

まずは、濡れた服を急いで着替えて。あなた自身が倒れたら、救えるものも救えないと思う。

その次に、そこの引き出しから白い布をあるだけ出して。

私はこの人の服を替えて、湯を沸かす」

言葉を聞いているうちにふらついていた青年の体には力が入り始め、素早く頷くとすぐに腰紐を解き始めた。


「こんなに速く動いたのは生まれて初めてかもしれない…」

息をつく青年に、ナツクは白湯を差し出した。

「今はこんなものしか出せないけど、よかったらどうぞ」

青年は一瞬身を固くすると、深々と頭を下げた。

「僕は円。そこに寝ているのはコン爺。襲われた所を逃げていたら、急に雨脚も風も強まってきて。

ありがとう。何か欲しい物はある?

なんでも手に入れてみせるよ」

「別にいいよ。ほら、あなたも早く寝て」

なんでもないようにひらひらと手を泳がせるナツクに、円は首を傾げた。

「僕たちは君に負担しか強いていないはずなのに、なぜそんなに優しくしてくれるの」

ナツクは少し間を置いて、

「目の前で縁のある命が消える所を見るのは、もうたくさんだから」

そう答えて、あとは黙って火の番をしていた。

ナツクの心の機微を感じ取り、円もまた、黙って火を見つめた。


一晩経つと、嵐はもう去っていた。

円は疲れてしまったのか、いつのまにかぐっすりと眠っていた。

開いた戸から、あたたかな日差しが差し込む。

「もし、そこのお人」

声は、布団の中から聞こえた。

ナツクは円を起こさないよう足音を忍ばせてコンの枕元に正座した。

「この御恩は忘れませぬ。いつか必ずこの命、あなた様のために捧げよう」

ナツクはそれを聞いて頬をかいた。

「コンさん。私はあなたに命を捧げて欲しくはないです。あの人と穏やかに生きてくれたらそれが何よりです」

「そう言うわけにはいかない。何かわしらに出来ることはないだろうか」

ナツクは考えた。

頭をひねってしばらく考えたが、結局のところ何も出てこないので、

「じゃあ、元気になったらうちに遊びに来てください」

と言った。

コンは目を瞬かせた後に穏やかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。


コンの回復を待って、2人は再び旅に出る。

はずだった。

「しばらくうちに置いて欲しい?」

申し訳なさそうなコンと対照的に、にこにこと笑みを崩さない円。

「僕らは追われる身でね。今旅に出るとまた襲われるかもしれない。そこで」

じゃらん。

目の前に巾着袋が置かれた。

「あの、今なんかすごい音がしたけど。すごくたくさん詰まったお金の音がしたけど」

「これを好きに使ってくれていい」

かっ、とナツクの目が開かれる。

これだけあったら、何ヶ月に一度だったぼた餅が月一で食べられるかもしれない。

「そのかわり、僕達を匿って欲しいんだ。これは、君の安全も兼ねて」

「安全?」

「君、僕の顔を見たろ」

ぎく、とナツクは肩を震わせる。

たしかにあの夜、どうしても気になってその長い前髪をよけて素顔を見た。

何の変哲もない、ごく普通の青年の顔だったが。

「もう君も部外者じゃない。でも、これ以上僕たちの事情に足を踏み込むと命の危険もある。

近くにいた方がなにかといいだろう?」

「あなた達、何者…」

円は口元に人差し指を押し当てた。

「ひみつ」

師匠。なんだかとんでもないことに巻き込まれている気がします。

ナツクはどうしようもなく、頭をかかえた。


町の花街で、女と床に入った1人の男がくしゃみをした。

「まさかあいつ、また勝手に何かしやがったのか」

女をよそに、男は面倒そうに立ち上がる。

その薄黄色の長い髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、不機嫌そうに眉根を寄せた。

「またな、香凛。ちと用ができた。お代は置いておく」

「ちょっとちょっと、お前さん」

制止の声も聞かず、男は荷物を背負って窓から飛び降りる。

女が身を乗り出して道を見た時、男の姿は既に見当たらなかった。




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